教育に関係ないっていう言葉
「自分は教育に関係ないのだけど・・・」
この言葉、実は結構よく聞く言葉。
この言葉を聞くたびに、胸の奥をつく違和感。
どういうことだろう。関係ないってどういうことだろう。
教育に関係ない人なんていない・教育は全員がプレーヤー
私の中では、ずっとこの感覚があって、
何がどうやって関係ないのか、いろいろ観察と考察を繰り返してみるが、その言葉を聞くたび、その真意がなかなかつかめない微妙な感覚に包まれていた。
教育って、全員がプレーヤー。
日々の生活がまさに教育そのもの。
一つ一つの言動が、
一つ一つの行動が、
全て教育につながっていると感じるのは、私だけなんだろうか。
学校教育=教育という構図
違和感を感じつつ、一体それがどこから来るのか、少しずつ紐解いているうちに、一つはっきりとしたことは、
「学校教育=教育」という意識と仕組みの構図の存在。
今、教育というと、学校教育を思い浮かべる人が多い。
さらに言えば、教育に関係するという表現は、教育を施す側(と考えられている立場)、つまり教師や教職についている人を指すことも多い。
もう少し言えば、その中でも義務教育期間である小学校・中学校のそれにあたる場合(高等学校まで含めてもいいのかもしれない)、顕著に「教育に関わっている」という表現に落ち着く。
日本の教育の理念は「生涯学習」
教育基本法というのをご存知であろうか。
日本の教育とは、こういう目的と、こういう理念に基づき行われているのですよ。という方向性が書かれている。
その第三条。
これが、今の教育の理念にあたります。
生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学ぶことができ、
それを生かすことのできる社会の実現
一生に渡って学び生かす「生涯学習」の感覚が、私の中の教育の感覚
冒頭の、「自分は教育に関係ない」という言葉への違和感の正体は、これなんですね。
教育という理念の相違。
教育というのは学校の中だけで行われるものではなく、学校という場が教育のトップに来るわけでもなくて、現在の仕組みと、その捉え方において、からまり複雑化してしまっている部分でもあるのだろうと思うと、
この理念というのは、もっとそれぞれが知り、理解し、それぞれにおいて咀嚼する必要があるのではないかということも同時に感じています。
自分は教育に関係ないと言っている人、感じている人、今一度この第三条に立ち返って
教育は全員がプレーヤー。
関係ない人なんていない。