選択的共生型教育・カオス?

選択的共生型教育って言ってるけれど

まずもって、この聞きなれない言葉「選択的共生型教育」

「選択的共生型教育」ってなに?
どういうこと?と思う人が多いはず。

それもそのはず。これは、完全なる造語。

私が頭の中で描く世界の話。こうだったらいいなと思う景色の話。

でも、この字の並びから、ちょっと想像できない?

「選択的」・・・選択できる、選択肢がある
「共生型」・・・共に生きる、協力する、協働する、連携する

そういう教育。それがある世界。そういう景色。

教育の話をし始めるとカオスです

教育の話は、みんなが経験するものでもあるので、みんなそれぞれいろんな経験があり、さまざまな受け捉え方があり、いろんな方向を見て話を始めるので、言ってみれば、カオスです。

カオスとは(Weblo辞典によると)・・・カオス(英: chaos)またはケイオスとは、「混沌」を意味する英語である。無秩序で、さまざまな要素が入り乱れ、一貫性が見出せない、ごちゃごちゃした状況・様相を形容する表現として用いられることが多い。

昨今の日本語表現としては、いかにも雑然としていてまとまりのない様子や、およそ関係なさそうな要素が無作為に入り交じってるように見受けられる状況を指して「カオスだ」とか「カオス状態だ」という形で用いられることが多い。「混迷する」「混迷を極める」という意味で「カオスになる」という風に表現されることもある。

「まじカオス」のように俗っぽく用いられる場合は特に「理解に苦しむ」「狂気じみている」というニュアンスを込めて用いられることも多い。

「カオス」の語源はギリシア語の Χάος(khaos)である。これは元々は宇宙(コスモス)が成立する以前の秩序なき状態を意味する語だった。英語では chaos と表記し「ケィオス」に近い発音をする。ちなみにドイツ語における Chaos はカタカナ表記の「カオス」に近い発音である。

日本語の「混沌」という言葉は、「渾沌」とも表記するが、もともと「渾沌」は古代中国神話における「天地が分かれる前の状態」のことであり、また、神話に登場する異形の神(帝)の名である。渾沌の顔には目耳鼻口の七穴がなく、七穴を設けたところ死んだ、と伝えられる。

人の集団において、統率者がおらず、集まった人が皆それぞれ自己主張して好き勝手に振る舞っているような状況も「カオス」と形容されることがある。

カオスが、”元々は宇宙(コスモス)が成立する以前の秩序なき状態を意味する語だった”とか”神話に登場する異形の神”とか他の出典によると”ギリシャ神話における原初の神”など書いてあり、このあたりの話しは個人的にはちょっとおもしろいと思ってしまうのですが、それはまた別の話しとして。

カオスだからこそ単一であることがいかに難しいかがわかる

「『教育』が単一的なもの」として捉えられると、話は一向にかみ合わない。みなさんも経験したことありませんか?

そもそもカオスなんです。教育はカオスなんです。カオスは、多様性という言葉でも置き換えられるかもしれません。いろんな人がいて、いろんな教育を受けてきています。同じ学校にいても、隣のクラスとは違う教育環境であるし、同じ教室内にいたとしても、その人自身がもっているバックグラウンドというか背景というか、そういうものも各々異なる状態で集まってきている。一つの事象にも、どのような反応があり、どのような化学変化が起きているのか(または起きないのか)、それらは本当にさまざまです。

私自身も教員経験がありますが、一つとして全く同じ授業というのは、存在しなかったなと感じます。

それなのに、教育という言葉のくくりで、一つの正解があるような、そんな議論になりやすく、自分の経験が全てのような視野にとどまったり、それらの経験とは違う観点で話されると自分が否定されているかのような錯覚に陥ったり・・・

これって、大本に「教育」に対する概念が、「単一である」とか「1つの正解がある」という意識から起こっている現象だと思うんですよね。

教育に対する概念という話をすると、そもそも教育ってなに?ということを考えないといけなくなるのですが、それは教育の本質とはという話になりますね。教育の本質を探れば、お互いに結構近しいものにたどり着くのだと思いますが。

教育って、そもそもカオスで多様性な世界だと認識したらいいのではないでしょうか?

そうすると、お互いの教育環境も「なるほど」ということになり、異なる事情や状態も「そりゃそうだよね」という話しになったりするのかなと。

教育がそもそもカオスで多様性な世界だとしたら

想像してみてください。教育がそもそもカオスで多様性なものだとしたら・・・

もっと自分の考えを言っていい。もっと自分の好みを言っていい。
それが、人と違っていい。違うってことに怯えなくていい。

違うっていうことに、不安や心配を抱く必要はなく、むしろ違うってことの方が自然みたいだと分かったら、

今ある閉塞感や窮屈感にも変化があるだろうし、それをほどいていく道のりがおのずと見えてくるような。

一つにまとめられないものを一つにまとめようとしてるのではないか

本当はひとつにまとめられないものを、一つにまとめようとしているから、おかしなことになっているのではないか。

カオスなりにまとまる部分はあると思うんです。ただ、それが、「一つに」ではないというだけ。じゃあ、そのまとまりの部分はどこなのか。そこを丁寧に見ていくと、「選択的」という方向へたどり着く。私はそんな気がしています。

カオスの先には、「選択的」が待っている。

とここまでの話しで、いかがでしょう?

私は、「えー?こじれている部分はどこ?なんでこじれてるの?どこをどうしたら、その絡まりをほどけるの?」の視点で、いつも物事をとらえているようなのですが、その視点でいくと、教育のカオス状態の先には、やはり「選択的共生型教育」というものが見えてくるのです。

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